林松寺の歴史


 府道園部平屋線を、船岡トンネルに向かって車で走っていると、前方にピラミッドの様な三角山があり、その背後の山頂にNTTの船岡無線中継所が見える。

 この辺りは、丹波戦国時代の動乱を物語る「八木軍記」や「内藤盛衰記」にみられる藁無高山城落城物語の舞台の地である。中継所からは大堰川筋の八木、亀岡の町並み、更に保津峡の入り口や、園部の町並みを眼下に、瑠璃溪の深山まで一望できることから、中世戦国時代の要塞の見張りどころであったことがうなずける。その前方にある三角山の山頂に十二の郭が並ぶ。古絵図を見ると、林松寺の現在地は二の丸(城主の館)跡にあたり、「水の手」や家老屋敷跡の石垣も図面どおりに現存している。

 当山は、後花園天皇の永享元年(1429年)、翁雲慶公首座開基により、北東約800メートルの山上(現在庵所ーアントコーと呼ばれている)に建立され、特に藁無高山城主の帰依篤く、祈願寺として栄えた。其の後、中御門天皇の正徳年間に火災の為、焼失し、元文元年(1736年)現在地に移転された。その後再度の火災にあい、本堂を焼失。大正十五年、十二世代に現在の本堂を再建。十三世代には位牌堂の新築及び老朽化の激しかった庫裡の建立がなされた。

 現在は移転再建当時の山門と土蔵が残っている。


藁無内藤氏について

 

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